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東トルキスタンからトルコまで四年間に亘る苦難と放浪の日々

評論家 三浦小太郎
「中国事情 民族問題研究」第6号(殿岡昭郎事務所発行)掲載
本稿は、今回トルコでウイグル太郎氏のご紹介でお会いした、アブドウラー氏のトルコ亡命までの苦難の日々をまとめたものです。このような難民が多くトルコには存在し、今この時点でもまた東南アジアを初めとする世界各国をさまよっているのです。中国における人権侵害から逃れて安住の土地を求めている彼らに手を差し伸べる事は、人道・人権擁護の立場から、自由で安全な国に生活する私たちの責務のひとつではないでしょうか。
そして、東トルキスタン亡命政府の最初の任務は、まずこのような立場にいる難民認定、就労ビザ取得、希望するものへのトルコ国籍取得を求めること、せめて政府関係者の間で彼らの安定した職業案内を行なうことだと思います。このような「苦しんでいる自国民の保護」がまず第1になされる事こそが、亡命政府の道徳的権威と、ひいては国際社会や東トルキスタン民衆の支持に繋がるでしょう。さらには、東トルキスタン国内にて苦しむ政治犯、その家族への救援活動、また彼のように今も世界をさまよっていると思われる東トルキスタン難民の救援が求められます。亡命政府が直ちにそのような救援組織体制を取ることが出来れば、そこに向けて世界の善意ある人々の浄財を求め、またその救援を通じて中国政府の非人道性や難民の苦境を訴えていくことも出来るのではないでしょうか。このことを亡命政府の大きな運動の柱として確立する事を切に求めるものです。(編集部・三浦小太郎)
東トルキスタン・イスラム運動が私を目覚めさせた
私は1981年11月10日、カシュガル地区カルグリック県で生まれました。5人兄弟で、全て男性、私はその末っ子です。父は小学校の教師でした。母は、1990年、私がまだ8歳の時に44歳で病死し、それ以降、私達は様々な事情からお父さんとも別居、私自身は小学校にもろくに通いませんでした。中国で暮らしていくにはこれは不利なことでしたが、でも、今にして思うと、中国政府の私たち民族を馬鹿にするような教育を受けないですんだのはむしろよかったのかもしれません。父は97年、小学校の教師を35年に渡って務めた後に、73歳でなくなりました。
中国を脱出しようと思ったのは様々なきっかけがありますが、その第1には、1995年ごろに、東トルキスタン・イスラム運動のメンバーが、私たちに様々な宗教を通じた教育を施してくれたことです。このことによって、私達は父を含めて家族は皆民族意識を抱く様になり、中国が自分達の土地を不当に占拠し、私たちを差別していることは明らかに不正なことである事を学びましたし、同時に我が民族が独立する権利があること、その実現の為には戦わなければならない事を悟りました。
まだ幼かったし、自分が運動のリーダーになれる力量はないとわかっていましたから、もし相応しい指導者がいたらいつでも従って戦いたいと言う意識はこの頃からありました。今は、この運動はビン・ラデインやアルカイダと同じテロ組織であるかのように認定され、中国はそれを利用して指導者達を激しく弾圧していますけれども、これは絶対に違います。確かに東トルキスタンイスラム運動は、97年から2001年までアフガニスタンで軍事訓練を行っていましたけれど、それはアルカイダのような無差別テロとは全く関係なく、ただ、中国政府の弾圧に抗するために軍事技術を身につけようとしていただけです。
国慶節前に北京を追われて
直接のきっかけになったのは、1999年9月でした。私はお金を稼ぐために、北京で料理店の手伝いをしていたのですが、国慶節が近づいてきて、10月までに私たちのような漢民族以外の民族は、デモや抗議行動をしかねない不穏分子だということで、一時北京を追い出されてしまったんです。9月24日、私たちは働いてきたお金まで没収されて、北京からバスに載せられ、内モンゴルの砂漠の中に放り出されました。私はゴビ砂漠から5時間も歩いて、やっと人家の見えるところにたどり着いて、何しろお金もなければ電話もかけられませんし、そこに散らばっているゴミや木切れを薪にして火をたき、畑から取ったトウモロコシを焼いて飢えをしのぎました。そして、とにかく電話をかけられるところにまで行こうと、とりあえずどこでもいいから駅まで歩こうと進んで行きましたが、途中、回族の方に会うことができました。その方は親切にも、食べ物を買ってれて、また10元ほどのお金をくれたんです。それで、何とか駅にたどり着いて、そこで北京の働いていた食堂に電話しました。
何しろ無一文に近いわけですから、何とか助けてくださいと頼んで、北京からお金を送ってもらって、また北京に戻りました。もう一度同じ食堂に行ったら見つかって追い返されると思いましたので、民族大学の学生寮に行って、そこのウイグル人の寮に隠れていましたけれど、そこで捕まって13日収監されることになってしまいました。
中国では、北京の身分証を持っていない人は、無差別に逮捕して一時的な刑務所に入れます。そこは2階建てで、上には5人の警察がいて、勿論脱走など出来ません。その上で、全員の写真を写し、一人一人に「犯罪者」と書いた看板のようなものを持たせ、顔は下向きにしてあげることも許さずに、3時間もかけてバスで運ばれていきます。全員で300人くらいで、そのうち100人くらいはウイグル人でした。
殆どの人は悔しくても黙っていましたが、中には、私は何の犯罪も犯していない、こんな形で強制されなくても故郷に帰るんだから自由にさせてくれ、と抗議する人もいました。そういう人は中国の警官から、ひどく殴られ、けられ、見せしめに骨を折ってやると脅されました。
今も忘れられないのは、その中の一人のウイグル人が、襟のところにかみそりを隠していて、私を自由にしないなら死ぬぞと言って喉を切って抗議したんです。でも、警察は何もしようとしない。ウイグル人たちが、何とか病院に連れて行ってくれと頼んだのですが、警察は平気な顔をしたままで、死んでも構わないからほうっておけとか言っていました。その怪我したウイグル人は2日たってから、ヘロイン中毒の人たちと同じ牢屋に渡されてしまったようです。
私達はこうして駅で待っている間に、ベルトも靴も没収、裸足にされました。こういう事態は、今でも何千人と言う人たちに同じように繰り返されているんです。例えば誰かがそれを見て、これはどういう人ですか、と聞くと、警察は、犯罪者達だ、とだけ答え、私たちには何もしゃべることは許されない。
私達は列車に乗って東北地方に送られました。場所はジャンジャコウというところでした。各車両は満席で、入り口には警察が見張りにつき、全員がイスの下の固いパイプに両手を縛られたままです。イスの下に堅いパイプがあって、そこに片手を全部縛りつけられる。痛くても、疲れてもそのまま運ばれてゆきます。
夜遅く中国東北地方につきましたが、そこでは警察の車が待っていて、警察所の大きな部屋、倉庫のようなところに押し込められました。そこには大きなバケツが隅っこに置かれていて、そこで用をたすのですが、勿論壁も仕切りも何もない。何しろ300人もいるのですから、小便とかはすぐ溢れてきて、その匂いで殆ど誰一人眠れません。まさに地獄の空気とはこのことかと思いました。
そこで、今度は警察から、お前はどこの出身かとか、一人一人聴いていきます。その中には女性も8歳くらいの子供も、親子連れも様々な人がいましたが、とにかく、まずお金を持っている人は警察に払って釈放されてゆく。段々お金のない人だけが残っていくんです。ある家族がいて、お金がないならその助成がしている金の指輪でもいいから出せと警察に言われていましたが、その人は、私は何も悪い事はしていないのに何故渡さなければならないのかと抵抗していました。でも、最後には無理やり、警察が奪っていってしまいました。まさに、泥棒やヤクザのやることと変わりがありません。
こうして、お金のある人は朝に警察に払って出てゆき、お金のない人は残っていきました。翌朝正午までに、半分以上がお金を払って出て、最後には15人くらいが残りました。それで、警察は、今度はお前たちは知り合いに電話して、現地のこの口座番号に500元入れたら開放する(そのまま警察官に届く)と言って、とうとう午後6時になって全員を解放しました。
私はジャンジャコウには、ウイグル人の食堂があるらしいと聞いて、また二日歩いて食堂を見つけ、事情を説明して、何とかお金を貸して北京までの切符を買ってください、それから電話かけさせてくださいと頼みました。食堂の主人はそれで北京までの切符を買ってくれもう一度北京に行って、昔働いていた食堂に行きましたが、もうこれからは雇えないとはっきり言われてしまいました。それで、これまで働いた分のお金を貰って、駅に向かいましたら、そこで警察にまた見つかって逮捕されてしまい、お前は今度はヘロイン(麻薬)を吸っていたと言う罪で犯罪者にしてやると脅されてしまいました。(三浦注:麻薬所持、売買は中国では重刑)。
そのとき、私は働いたお金として2500元を持っていましたが、このままウイグルに送られれば、5000元の罰金刑か、それができなければ6ヶ月の強制労働(石の破砕、運搬などの重労働につかされます。そこで、他にも沢山のウイグル人が捕まっていましたが、私達は打ち合わせて、警察に750元のお金を渡して自由になりました。もうこの時に私をここまでいじめる中国にいたくはない、と思って、ウイグルに帰るのではなく、比較的警戒のゆるい東南アジアから脱出しようと思って、昆明に向かいました。
ベトナムへの脱出、そして逮捕
昆明に来てベトナム国境を見て、約1週間かけてどうやってベトナムに脱出するかを調べました。まず望遠鏡を買って、地図と見比べて逃げる道を観察し、現地の人に300元ほど払えば、無事ベトナムに連れて行ってくれることが分かりました。その人に援けてもらいベトナムには入れたのですが、後が大変でした。国境の近いところで、バス停でハノイに行くチケットと地図を買って、そこでまずはモスクを必死で探したけど見つからず、困って、地図を見ながらカンボジア国境まで行って、そこで警察に捕まってしまいました。検問所で捜査されて、パスポートも持っていないから、翌日、警察にハノイ市内までつれてこられたけど、言葉も全く通じないので、次に地図を見せられ、お前はどこから来たのか、と言う意味の事を聞かれたようですから、「私はカシュガルから来ました」と、そこを指したら、初めて警察は納得したのか、やっぱりウイグル人かと思ったのか、皆笑い出しました。
次にベトナムの警察の中でも中国語のできる人がやってきましたが、私は中国語もできません。そして、3日間の間、食事もイスラム教徒の作ったものではありませんから、豚肉とか使われていて食べられず、果物だけを貰って食べていました。そのあとウズベク語のできる警官が来てくれて、それで何とか話はできたのですが、一体ベトナムに何のために来たとか色々聞かれ、持っていたかばんの中など全て調べられました。そして、私は地図はずっと持ち歩いていたんですけど、必要ない部分は全て捨てて、色々歩いてきた所に点をつけながら、ポケットの中と外を出し入れしているうちに、ポケットの中で随分こすれて見えなくなった部分が出来たんですね。それで警察官が疑い始めて「これはいかにも不自然だ、これはベトナムで作った地図じゃない、お前はスパイではないか」と2日間さらに、一体この地図はどこから持ってきたのかと問い詰められたんです。
これは他国で作られたものじゃないかと随分言われたので、それなら、私がこの地図を買った店に連れて行ってくれれば、地図を買った店に案内しますから、そこの主人に直接聞いてみてください、と答えました。実際警官は私を国境近所のその店に連れて行きまして、最初は警察官だけで、こんな感じの男に地図を売らなかったかと聞いていましたけど、店の主人は、色々なお客さんが来るんだからそんなこと一々覚えていられないよと答えていました。でも、その後私が直接店につれて行かれたら、ああ、この人なら覚えています、確かに地図を買っていかれましたねと主人が言ってくれて、それで何とかこの疑いを晴らすことが出来ました。
私は、とにかく私はイスラム教徒の国で暮らしたいんです、と警官にいい続けました。他に何の望みも目的もありません、イスラムの信仰を守れて、ひどい目に合わされない国に行きたい、それだけの理由で中国を脱出したんですと言ったのですが、警官は、そこまで言うなら、何故正規のパスポートを取ってこなかったのかと言うんですね。私は、ウイグル人がパスポートを取ったり自由に国外に出ることがどんなに大変かを語り、他に手段がなかった事を説明したのですが、結局聞いてはもらえませんでした。
私はベトナム広西省との国境につれて行かれ、持っていたお金は没収されました。ただ10元だけくれて、「この山を越えて、10元をおいて何もいわずに通ればいい」と警察に言われました。その通りに山を越えると、そこには中国人が一人いて、10元を渡すと、もうここは中国でした。でも、もう一銭もないわけですから、近くを通ったオートバイタクシーの人を呼び止めて、とにかく街まで行ってほしい、と言いました。すると、駅まで乗せてくれるからといって、25元だと言います。勿論持っていなかったけど、そのまま乗って、ついた時点で実はお金がないんですと言いました。散々怒られましたが,最後には私の腕時計を渡して、許してもらうしかありませんでした。
その夜は野宿して、人に聞きましたら、この先25キロくらい行った所に、ぶどうを売っているウイグル人がいると教えてもらい、まずはその人がウイグル人かもしれないと思って歩いていきました。すると、6キロほど歩いた所でに三叉路と道路標識があって、そこで待っていたら、野菜とかを運んでいる三輪車タクシーがやってきました。
私はそこで、今お金はないけれど、ウイグル人がこの先にいるから、その人にあったら払うと行って乗せてもらいたいと頼みました。すると、スイカの商売をしているウイグル人の人がやってきて、その人はベトナムから来るスイカを買って、ウイグルに送る仕事をしているんですが、その人達が事情を話したら、お金を10元払ってくれました。そして、ウイグル人で外国にいける奴はほとんどいないのに、お前はもう外国に(ベトナムに)行ったのかと驚いて、まあ、とにかく私たちのところで食事を作るなどして働きなさい、と言ってくれました。その人たちのところで2ヶ月ほど働いて、2500元のお金を貰うことが出来ました。彼ら二人は、もうこれからはウイグルでスイカの出来る奇説で、この商売は成り立たないから故郷に帰る、お前は良く働いたから500元はその賃金で、2000元は贈り物だ、と言ってくれました。そして、トラックに乗せてくれて、お金を運転手に渡し、ミャンマー(ビルマ)のラングーンに近い街で下してくれました。
東南アジアを転々とさまよう
私はまずその町のカジノに入りました。博打をするためではなく、止まる所がなくてもそこは24時間営業ですから、時々横になりながら2日間をまず過ごしました。しかし、3日目にカザフ人の人がやってきて、私は色々聞いてみたのですが、その人は、ここにはモスクなどないし、イスラムにも力はない、このカジノにいる間は大丈夫だろうが、外に出たら捕まるだけだぞと言って、結局昆明の故郷付近まで戻されてしまいました。
そのあと、私は2ヶ月くらい、シシカバブを焼く手伝いなどを店で働きながら、ちょうど水撒き祭りの間でしたので随分お金も入って、約5000元くらいをためることが出来、また安全な所に行こうと思いました。また地図を買って、今度はラオスに行こう、と思い、国境付近に回族の方がいたので入国への道を教えてもらいました。この道なら警察が少ないとか、本当に詳しく知っているのですね。道の両側は芝生のようで、低い山を越えて、3時間くらいかかってラオスのある村につきました。その村の人が街まで案内してくれましたが、そこまで歩いていくのに、草むらに大きな虫が一杯いて、足が刺されて本当に苦しかったです。何とか街まで歩いて薬を買い、痛みやかゆみを抑えて、ラオスの首都ビェンチャンまでの切符を買いました。
バスでビェンチャンに向かいましたが、検問所が幾つもあります。最初の内は、私はバスの前の方に立っていたので、逆に疑われなかったんです。警察もまず後ろに隠れている人を調べますから。でも、ついにある橋のところで全員がチェックされて、私はやっぱりパスポートもありませんし、警察に捕まって出発した街まで戻されてしまいました。
警察から、お前は一体何をしていたのかと問われて、私は、国境近くでシシカバブなど料理を売っていた商人です、と言いました。そして、500元を払えば自由にしてやると言われ、そこで交渉して、100元でとりあえず警察署を出ることが出来ました。でも、この経験から、警察はあさ9時から12時までは検問をしているけれど、その後はバスも余り無く、チェックも少ない事が分かりましたので、午後3時に警察から出たあと、4時間歩いて一度バスから下された橋の所までたどり着きました。今度は警察もいなかったので、橋を渡って村に入り、そこでバナナを買い、コーラを飲んで、その夜は7元ほど払って草で編んだテントのようなところで寝かせてもらいました。翌日、ビェンチャンまで何とか行きたいんですと伝え、バスを案内してもらって首都に着き、そこで中国人の経営している店を見つけて、とりあえず安いホテルはないかと尋ねました。
その中国人は、ホテルより、1日10元でいいからうちの2階で泊まったらどうか、と言ってくれましたので、2日分のお金を払って、また本屋さんを探して地図を買いました。イギリス人の経営している店で35ドルもする高い地図でしたが、また地図の必要な所だけを切り抜いて、ランサンジャンという河がタイとラオスの国境線に流れていることがわかったので、この河で何とか国境を超えてタイに行こうと思いました。
その河を訪ね、3日間ほど色々な事を調べた所、夜の間には、ひとりしか乗れない小舟が、1元で国境を往復していることが分かりましたから、4日目に、その船に載ろうとしました。でも、言葉が良く分からなくて、結局下されてしまい、そこに警察がやってきて、連行されてしまいました。
私は何を聴かれても、「トルコ、イスタンブール」の二つの単語しかいいませんでした。中国語の出来るラオス警察が聞いても、顔色も変えず黙っているものですから、とうとう警察も諦めたようでした。その頃には服からも靴からも中国産と分かるような名前や印も全て消していましたから、簡単に中国出身とは分からない。その牢ではサダム・フセイン政権から逃れてきたイラク人も7人ほどいましたし、後中国人も2人ほどいました。私はイラク人とはトランプをして遊んだりしましたが、その間も何も喋らないようにしていました。
9日目に、私は船に乗せられ、タイに運ばれました。警察は、貴方の国の大使館はタイにあるから、ここで何とかしなさいと言って私を下してくれました。お金は3ドルくらいを残して皆没収されましたが、ベルトの下に隠していた400ドルは幸い見つかりませんでした。夜はそのまま野宿して、朝になったら、バスに乗ってとにかくビエンチャンを目指しました。
牢屋にいるときトルコ人が、タイに行けばモスクがあると教えてくれたこともあって、とにかくモスクを探し、オートバイ・タクシーを使ってレイというビェンチャンに近い街でモスクにつくことが出来ました。そこはモスクと言うより人の家で、ひげの長い老人が一人座っていて、その方がオートバイに代金を払ってくださいました。
そこでシャワーを浴び、モスクの方に買ってもらった地図を辿りながら、自分は実はこういうところで生まれ、こういう経路でここにたどり着きましたと言ったら、とにかく苦労されたようだから、しばらくここに泊まりなさい、ここは毎週金曜イスラム教徒がお参りに来るだけで後は誰も来ないから安心しなさいと言ってくださいました。
そして、そのモスクの老人は、タイのイスラム教徒のために牛を飼っていることが分かりましたから、その解体やえさ運びなどを手伝いながら2ヶ月をすごしました。その間にはずっとラジオを借りて聞いていました。アメリカがやっている自由アジア放送、あれを聞いて色々世界のことやウイグルの事を聞きながら、片言でタイ語を覚えました。その後、どこでもいいから、パスポートを作れるところはないでしょうかと尋ねましたが、ここでは貴方を住まわす事はできるけれど、それ以上のことは難しい、と言うことでしたので、バンコクに連れて行ってもらい、そこのメドレス(宗教学校)をまず訪れました。すると、パスポートがなければ入れないと言われたので、貴方達は宗教を教えるのに、パスポートと人間の命とどちらが大切なんですかと言って入れてもらい、そこでさらに2ヶ月、コーランと言葉の勉強を続けました。
国連にも見捨てられて
そして、無料電話の番号を聞いて、ワシントンにある自由アジア放送のウイグル部門に電話を入れ、アメリカのウイグル人協会の責任者の電話を教えてくださいとお願いしましたら、アーリム・セイトフの番号を教えてくれました。セイトフに事情を説明したら、国連に難民申請を出すしかないと言われて、では、私は英語もできないし、是非手伝ってください、お願いいたしますと言いました。すると、ローマ字でもいいからまず書いてメールで送ってくれと言われて、それまでコンピューターも殆ど触った事はありませんでしたが、苦労して私の経歴を送り、セイトフが英語に直してくれて国連に提出しました。
しかし、4ヵ月後、私が言葉の問題もあって、うまく自分の経歴や意思を伝えられなかったのか、結局国連には拒否されてしまいました。ドイツの東トルキスタン民族代表大会主席の電話番号も教えてくれたので、そちらにも相談しましたが、結局こちらの方も駄目でした。もしかしたら、ちょうどこの年は2001年9月11日のテロ事件の年でしたから、その影響もあったのかもしれません。最終的に拒否の知らせが来たのは9月26日のことでした。
もう一度、トルコ、ドイツ、アメリカから届いた資料をそろえて、中国に引き渡されたら身の危険があるからと、タイの国連オフィスに難民申請を求めましたが、やはり結果は同じでした。私はもう絶望して、このままでは駄目だ、マレーシアに今度は行こう、あの国ならイスラム教徒も多いから援けてくれるかもしれないと決心しました。
マレーシアとタイの国境には、戦争後マレーシア人が住んでいるところがあった、留学生の交換もしばしば行われています。そこにはヌル(光の意味)と言うトルコの教育組織(正式な名前はNurchilar光を与える、宗教と現代にあわせようとする組織、米国、中央アジア、東南アジアなどに支店がある、中央アジア各国にトルコ高校を設けて、トルコ文化を教えている)もありましたので、そこにまぎれて、マレーシアに行きました。そこではトルコ人の家に留めてもらいましたが、そこでも、泊まるのはいいけど、それ以上援けるのは難しいと言われましたから、街に出て何とかしようと思いました。
しかし、街に出たところを警察に捕まって、そこでも私はトルコ人だと言い張りましたが、警察は容赦なく私をひどく殴り、指紋も写真も取られて刑務所に入れられました。刑務所の中にはパキスタンやイランの不法入国者がいて、1日2食、そして弁護士に会うことも許されない。40日もそのままにされて、私は「もう我慢できません、とにかく責任者に合わせてください」と頼みました。すると、誰か上のほうの人が来てくれたので、私は泊めてくれたトルコ人の名前を挙げて、とにかくこの人を呼んでください、話をさせてくださいとお願いしました。そして、来てくれたトルコ人の方が夜遅く来てもらって、とにかくマレーシアドルで300ドル(にあたるお金)あればここを出れる、と言うことになり、この方が親切にもお金を出してくれたんです。警察の車でタイ国境を超えて戻され、後は好きにしろと言われました。このトルコ人はお医者さんですが、本当に親切な方でした
私はバンコクに戻り、モスクに言って10日ほどを過ごし、何箇所かのモスクを回っているうちに、パキスタンの人に「赤十字に行ったらいい、あそこは困っている人を助けてくれるよ」と教えられました。そして赤十字を訪れると、食事は出してあげる、後は英語を学びなさい、それから貴方が取材を受けて難民として助けてくださいと呼びかけたらいいといってくれました。そこで、1ヶ月ほど勉強し、アメリカ人もウイグル協会の人も来てくれて、私の事を色々取材してくれました。でも、あまり効果は挙がらなかったようです
1ヵ月半後、東トルキスタンから巡礼に行く人たちに会いました。この人たちは直接中国から西側に抜けるのは難しいので、東南アジアから巡礼に行きます。そこで、この人達のガイドや旅先のお世話をすることでお金を稼いで、タイで約2年間を過ごして貯金しました。7000ドルくらいはたまりました。それで、内1000ドル使ってトルコの偽パスポートを作って、トルコ行きの切符も買い、2003年10月17日、バンコク・イスタンブールのチケットを買って飛び、ついにトルコのイスタンブールに着きました。
入国時、パスポートが偽者である事は警察がすぐわかって、本当ならば24時間以内に追い出すけれど、貴方に48時間上げる、外務大臣がイタリアに会議に行っているから、聞いて入国許可が出たら入れてあげる、駄目と言われたらバンコクに帰しますと告げられました。そして結局、バンコクに送還されることになってしまいました。19日バンコクについて、そこで警察に、この21日にはAPECの会議が在るので、今はとても警備も入国審査も厳しい、トルコ警察からは、そちらで処理してくれと言う書類が来ているといわれました。
私は、とにかくバンコクではなくマレーシアに行きたい、と言いましたら、500ドル出せば送ってあげるよというので、そのカネでマレーシアの観光ビザを買って、マレーシアで色々なウイグル協会やトルコ政府にもお願いの電話を入れましたが、結局何も成果はありませんでした。そこで私は、今度は何とかイランに行こうと思い、イランはビザなしでいけますから、それでテヘランに来ました。
でも、イランでも何もできず、15日後、今度はバスでアゼルヴァイジャンに行きました(ここもビザはいらないですから)。そしてすぐ内務省に行って、事情を伝えて、何とか助けてくださいとお願いしましたら、内務省はいきなり、お前のパスポートは没収して身柄は中国に渡すといい始め、私は余りにもそれはひどいと抗議し、3日間時間を下さいと言ってトルコ大使館に助けを求めました。トルコ大使館の人は、とにかくトルコに難民申請をしなおしなさい、確立は20%くらいだけれど、と私に名刺をくれたので、それを持ってもう一度内務省を訪れましたが、その日はもう会ってさえくれませんでした。
翌日もう一度トルコ大使館に行って、パスポートがトルコ大使館で必要なのでコピーするから渡してくださいとお願いしました。警察が付き添うならいい、とパスポートを返してくれたので、私は警察と途中まで一緒に行きましたが、今日は寒いですからひとりで行きます、すぐ帰ってきますと言って外に出ると、そのまま帰らずにバスに乗ってイランを目指しました。
最後のチャンス、雪山を徹夜で越える
トルコ国籍の場合、陸路でイランに入ったら15日のビザで、ここでこれ以上時間を無駄に過ごして警察につかまるわけには行かないと思って、私は喫茶店などで国境を超える案内役の人たちを探して相談し、500ドルくれれば、歩いてトルコに入る道を案内してやると言われました。ただし、雪山の中を8時間は歩くといいます。でも、もう私はこれしかチャンスはないと思って、夕方4時から山越えにかかりました。
寒さと疲れで、途中私は何度も意識を失いました。夜中2時を過ぎた頃から、もう何度も希望を失いかけ、二人の案内役に両脇から抱えられ、何とか歩き続けているような状態でした。意識を失っては頬を叩かれたりして目覚め、雪を口に入れてもらって渇きを癒し、さらに1時間ほど歩きましたが、雪と雪の間の裂け目に一度は滑り落ち、もう駄目かと思いました。しかし、直接はのぼれませんから、少しずつ両手で棒を持ち、体を支えながら横伝いに移動して、何とかその裂け目からも脱出することが出来ました。
朝の9時ごろ、トルコの国境警備隊の検問所が見えました、2人は、ここまで来たら大丈夫だ、後は旗のところまで歩きなさい、と言ってお金を受け取って去っていきました。またそれから2時間くらい歩いて、11時ごろに、滑り落ちるように山から下りると、そこにはトルコの人が2人ほどいました。2人は、お前は誰と来たのか、と聞きますので2人の案内役の名前をいいますと、もうそれで全て分かったようでした。2004年年2月9日のことです。
この時はもうなんとも言えない気持ちでした。やっとトルコにたどり着いたという気持ちと、警察に捕まったらまたもどされるのだろうかという思いとが一緒になっていました。そのあと、その2人にバスを教えてもらい、アンカラを目指しました。途中、検問所で警察に呼び止められましたが、もう何を行っても信じてくれないので、ついに「東トルキスタンから来ました」と正直に言ったら、皆も警察の人も笑い出して、肩を叩き、許してくれました。そのときですね、本当にトルコにたどり着いたと言う気になったのは。
アンカラに来てからは、色々な協会や、イスタンブールの基金会にも訪れ、これまでも東トルキスタン問題を考える集会や、中国に抗議するデモ行進などはほとんど参加していると思います。しかし、私は未だに身分は無国籍で、仕事も殆ど出来ません。こうして4年間の年月を経てたどり着いたトルコですが、何より中国と違って差別もなく、自由がある事は素晴らしいと思います。しかし、私も難民としての認定を求め続けていますが、まだまだ道は開けるかどうかわからない状態です。私個人の問題も勿論、東トルキスタンの独立運動にもっと力を注ぐ為にも。何とか難民認定を受けたく思います。現在は6ヶ月の渡航証があるだけですから。
でも、一度イスタンブール空港で捕まって送還されそうになったときは、正直、壁に頭を打ち付けて、大怪我をしてでも、警官と暴れてでも何とかこの国に残ろうと思ったんです。でも、それはやめておこうと最後に自分を抑えた。今となっては、あの厳しい雪山を越えた事を思えば、これから辛いことがあっても耐えられるのではないかとも思って自分を励ましています。労働ビザもなくて仕事にも就けないけど、少しずつ売り子になったりしながら、人のやらないような厳しい仕事や安い給料でも働いています。
でも、あのイスタンブールで取り上げられた荷物、返してもらっていないし、多分あのまま空港の倉庫にでもあるんじゃないでしょうか。難民認定や、もしトルコ国籍が将来得られたら、真っ先に返してもらいに行きたいですね(終)
2005年10月29日
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